夢のあと

アラサー独身女性のひとりごと。思いつき。不定期更新。

私が得たもの

私が彼から貰ったもの

・たくさん話しを聞いてくれたこと

・私が喜ぶような物をたくさんプレゼントしてくれたこと

・料理を作ってくれたり、家事をしてくれたこと

・自分の体を大切にするように、休みを許してくれたこと

・楽しいデートをいつも考えてくれたこと

・喧嘩は長く付き合うためにするものだと教えてくれたこと

・付き合いの中で浮気などの不安を感じさせなかったこと

・だらしない、弱い自分を見せられたこと

 

 

彼がおそらく欲しがっているもの

・いつでもどんな自分でも受け入れてくれること

・私が不機嫌にならないこと

・彼の考えや言葉は全て正しいと、私が心から信じること

・いつでも電話にすぐに出ること

・独り言のラインに返信するなど、常に関心を寄せてほしいこと

・友達よりも何よりも彼が1番でいたいこと

・彼から貰った愛情には、必ず喜ぶこと

 

 

私が彼にあげたかったもの(あげていると思っていた)

・母親のように、全てを受け入れる愛情

・いつも機嫌よく、自分らしくいること

 →この2つは無理だった。いつも私は母性的な愛情と恋愛の愛情を間違えてしまう。対等でいるには、互いの尊重やコミュニケーションが必要だ。

・相手が嬉しいと思うことを考えること

 →サプライズは喜ばず、物を無駄にすることが嫌いなので、自分が欲しいものを欲しがる。しかしそれだけだと満足しない。+αが大事と言っていた。

・相手の生活時間に合わせた

・相手の負担にならないように、移動や金銭的な負担をワリカンにした

・相手の居住地に移住するべく、就職試験を受けた

 

 

不満

・命を大切にする=食べ物を大事にする、という考えは大好きだったが、彼の過去を聞くと繋がらなかった

・私のミスに対して行動の修正を強いることを学べたが、彼の過去を聞くと何故修正していないのかわからなかった

・電話やラインで愛情を図ること

・何がきっかけで不機嫌になるかわからないこと

・急に電話口で怒鳴り出すこと

・冷却期間を置きたいのに、置かせてもらえないこと

・別れる気がないのに、何度も口にして試すこと

・感情のコントロールができないこと。自分の機嫌を自分で治せない。

・だからか、常に体調が悪い(と言う)こと

・学生時代の武勇伝ばかり言うこと

・仕事の不満で溢れているのに、何故ブラック企業といわれる職種につくのか、理解に苦しむこと

・母親への不満が多く、母親と私を重ねて不満を言うこと

 

 

それでも好きで好きでたまらなかったし、互いの親族に会うほどには関係は良好だった。

自分の気持ちをごまかしていたことがよくなかった。

どんな過去だろうと受け入れたい自分と、生理的に無理な自分と出たときに、周りに相談して、自分の気持ちとしっかり向き合った方が良かった。

徐々に電話やデートが負担になってくる感覚にも戸惑いしかなかった。

好きな彼、から、好きでいたかった彼になっていた。

でもそれでも話し合いをしたり、喧嘩したり、仲直りしたり、なんとか良くしようと思っていた。

誰と付き合っていても喧嘩はある。不満もある。今まで飲み込むことが多かった私だけど、それを彼とチャレンジして乗り越えられたのならば強い絆になるだろうと。

そう期待していたのだ。

 

ただ、喧嘩や不満、八つ当たり、嫉妬をぶつけられるたびに、本当に疲れていった。

一緒にいたいならば、どうしてそういう態度をとるのか理解に苦しむ。

そういうものを受け入れるふりして受け入れる度量がなかった自分にも責任はある。

 

昨日から彼は不機嫌だ。

もう相手の感情に振り回されるのも懲り懲りだ。

明日も同じようだったら、愛情と感謝を伝えよう。相手の言葉を聞こう。

それでもダメならもうダメだ。

仕事と私生活と

仕事のときの人格と私生活の人格が違う。…というのは、当たり前のものだと思っていた。

仕事では目標に向けて組織で動くから、役割を果たそうと精一杯の努力をする。

加えて改善・修正できるところはできるだけやっていく。

ミスを少なくすることで結果的に利益につながる。

それらは大層エネルギーを使うし、緊張状態となる。だのに人間だからミスもするのでミスの挽回やらフォローやらで計画通りにいかないときだってある。

 

だからこそ家では寛ぎたいものだ。

 

私は一人暮らしだから、それは本当に気楽なものである。

とりあえず食べ物だけあれば好きなだけダラダラできるのだ。

その緩みと、仕事の緊張と、両方大事なものだ。

 

だが例えば主婦・主夫の人にとっては、家庭は職場でもあると思う。

家事や育児などで時間に追われる上、その裁量や責任の所在は常にまとわりつく。

もし自分が結婚したあと、子どもが生まれたときのことを想像すると、今のように一人で家でくつろぐことは難しいのだろうなとも思う。

その代わりに得られる安らぎや幸せもあるのだろう。

 

どちらが善い悪いのではなく、もちろん優劣もなく、人生は常に無いものねだりだ。

私は一人暮らししているのに、まだ一人の時間を欲している。

でもそれだって、誰かが側にいるからだ。側にいてくれるからこその望み。

過去にヒトリになったとき、誰かの存在や繋がりを求めていたのだから。

 

話しが若干ずれつつあるが。

上記のように考えると、他人との共同生活は、仕事と家庭の人格の統合になるのかなとも思う。それが大人の要素でいうところの余裕や自信につながるなのかもしれない。

問題は、その生活が自分に合っているのか、実際にしてみないとわからないことだ。

美女と野獣

4月21日公開の、美女と野獣 実写版を観てきた。公開前からとても楽しみにしていたので早めに観られたことは幸せだ。

しかも4DXで。

4DXで観る映画はズートピア以来。前回も今回もストーリーに入り込むまでに乗り物酔いになりそうな感覚に襲われる。でも多分また1年経つと酔ったことも忘れてしまうだろう。

トーリーは、過去にディズニーアニメで公開されたものとほとんど変わらない。

だけど念のためにネタバレ回避として改行する。

 

 

 

 

 

 

 

感想としては「観て良かった」。

もともと「美女と野獣」のベルは、ディズニープリンセスの中で最も好感がもてるキャラだった。

それが何故かは当時の自分ではわからなかったが、今回の実写によりベルの良さがますます際立っている。

ベルは聡明で、勇敢で、強いのだ。

街中で浮いていても無理に理解者を得ようとしない。

自分が好きな本や勉強で見聞が広がる幸福を知っている。

自分が大切にしている家族や本、生き物を大切にする。

野獣と出会ったときも、最初は見た目こそ怖がったが、見た目よりも野獣の発する言動に反応する。野獣とは正反対な、見た目で判断しないタイプなのだ。

 

そして今回の実写化で、ベルが野獣に惹かれた理由がとてもよくわかる。

自分の世界観を共有できる相手は村には誰もいなかった。

だが、ベルが字を読み書きすることに否定をしないどころか、図書室を与えて文学の話題を共有できる野獣という存在。野獣もベルに受け入られたが、ベルも受け入られたと感じるシーンだ。

 

過去を旅しベルが家族を想う姿、そして父親の危機を目にするベルを解放する野獣。

互いの気持ちを言葉で確認し合っても不安に思うのが一般的だ。

だからこそ恋人とか結婚とかで結びつけるのに、野獣はそうはしなかった。

ベルが愛する「自由」を与えたのだ。

その時点で野獣はベルを愛しているのだなと強く伝わる。自分の事情や感情よりも愛を手放してベルを信頼した。

 

ベルの話を聞いてガストンや村人が城を襲うときも、野獣はベルのせいだとは全く思わない。もし野獣に少しでも愛に対する疑いの心があればベルが仕向けたと考えても良い状況なのに。

このシーンを思い出すたびに、愛の強さと難しさを感じる。

 

誰もが心の中に野獣がいる。

過去の過ちや、自分の欠点、嫌悪感、劣等感、レッテル。

自分で認められない、愛せられない部分を誰かに委ねることはとても勇気がいるし恥ずかしい。裏切られたときの傷を思えば、人と深く関わろうとしないようになっていく。

その部分を許したり、理解したり、愛せたりするのか。できるのか。

幸せを祈り、相手の言動のすべてを信じられるのか。信じてもらえるのか。

その実現が難しいからこそ、愛のテーマは昔から人の興味を引いてきたのだと思うし、「美女と野獣」が愛されている理由だとも思う。

お母さん

うちの母は一言でいうと「天然」だ。

天然、という表現にどのような印象を抱くかは人によって違うだろうが、少なくとも私は言われて嬉しいとは思わない。

一昔に「天然女子がモテる」とか「天然と養殖の見分け方」とか天然がもてはやされた時代もあったが、あれはおそらく本当の天然ボケを知らないからだ。

ホンモノは日常生活・社会生活に支障をきたす。

会話がかみ合わないことは毎日だし、財布を落とすことも1回では済まない。結構シャレにならないミスをしてくれるのが天然だ。反対に可愛いレベルのミスなら確実に養殖だ。

 

話しが若干逸れたが、私の母は天然である。

しかし、今日はそんな数多ある面白い(時に笑えない)事件を書くわけではなし、そのためにブログ開設をしたわけでもない。

 

私は、そんな母が大好きだということである。

 

ミスをよくする母なので、人のミスには寛大だったりする。

人に頼った方が楽なこともあるだろうに、基本的には自分でなんとかする。一応、迷惑をかけないように、という気持ちがあるらしい。

だから、家事はほぼ全て一人でしている。それもあまり苦に思うことなくやっている。仕事をしながら、子育てをしながら、一時期は介護もあったのに笑顔を絶やさない。

少なくとも私が子どものときに惣菜や出前といったものを食べた覚えはなかった。

自分の誕生日も私は「お母さんが作った○○が食べたい」と言った。母が作る料理はなんでも美味しい。

私自身が料理苦手だから余計に思うのだが、毎日3食の献立を考え作るのは結構しんどいことだと思う。なのに、母は毎日作ってくれていた。

毎日変わらない手料理と笑顔。

それはつまり、絶対的な安心にもつながる。

最初に述べたように、いろいろ不安要素はもちつつも絶対に裏切らない・変わらない母親像がそこにはある。

そこに皆惹かれ、だからこそ家の外で挑戦でき、家で慰められたりするわけだ。

 

私もそんな超人的な愛をもつ人になりたいと思い、仕事に就き一人暮らしを始め、幾つか恋愛をしてきた。

でもどこかで母のようにはなれないとも思っている。

だって私と母は違うのだから。

それが当たり前だし、それでいいとも頭ではわかっているのだが、深い愛情を惜しみなく出せるあたたかい人間になりたいとも思ってしまう。

 

近くて遠く、似ているようで似ていない、でも憧れる

それが私のお母さん。